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この店だけが私の存在証明

last update publish date: 2026-06-18 21:15:49

微かに冷蔵庫のモーター音が聞こえる。

海斗は厨房の入り口にもたれたまま、不機嫌そうに腕を組んでいる。

彼の靴先がコツコツと地面を叩く音が、その苛立ちを無言のうちに語っていた。

咲希はレシピ帳から顔も上げずに答える。

「考えてみたわ」

床を叩いていた音がふいに止まる。

咲希はさらに静かな声で続けた。

「離婚には応じる」

海斗の顔に喜色が浮かんだ。

だが、その喜びが形になるよりも早く、咲希は顔を上げて強い眼差しを海斗に向けた。

「だけど、この店は渡さない」

海斗の表情が一気に落胆に変わる。

「そんなことを、まだ言うのか」

「慰謝料はこの店だけでいい、そうすれば離婚には応じる」

「咲希、よく聞け……」

「入らないで!」

厨房の中へと足を踏み出す海斗を、咲希は声だけで押し留めた。

「ここは関係者以外立ち入り禁止よ、話があるならそのままどうぞ」

「俺は君の夫で、ここの出資者だが、それでも関係者じゃないというのか」

咲希は鼻先で笑って答えない。

今や彼女にとってこの男は、他人よりもよそよそしい存在だ。

そして海斗にとっても、咲希はもはや尊重する必要のない相手であった。

「君の手腕ではこの店の経営を維持することはできないだろう、たかが料理に、君はこだわりすぎなんだ」

「それがあなたに何の関係があるというのかしら」

「関係はあるだろう、出資した以上、利益は戻してもらわなきゃならない」

「利益ね、あなたにとって大事なのは、それだけなのね」

この店——ラ・ベラ・ヴィータの店舗自体の資産価値はさほどでもない。

1日5組に限定して、原価を考えず高級食材をふんだんに使うスタイルだから、売り上げもほとんどない。

それでも利益至上主義の海斗が、なぜこの店の所有権にこだわるのか。

それは、この店の知名度が十分に価値あるものだからだ。

「俺ならば、この店をもっと大きくすることができる」

「大きくするつもりはないわ」

「それだよ、そのこだわりがこの店を潰す、だから君にこの店は渡せない」

咲希は黙ってレシピ帳を閉じ、立ち上がった。

「仕込みがあるの、どうぞお帰りください」

「咲希、あまり頑固だと、後悔することになるぞ」

海斗は大袈裟に踵を返して立ち去る。

遠ざかってゆくその足音を聴きながら、咲希は無意識のうちにコック服の襟元を指先でなぞった。

そこには古い傷痕がある。

首元を起点に、胸を通って脇腹まで伸びた、醜く引きつれた傷痕が。

これは五年前、通り魔事件に巻き込まれてできたものだ。

当時、二人はまだ“真っ当な”夫婦だった。

夜はベッドで体を絡めて眠り、昼には手を繋いで二人で買い物に出かける。

そんな、確かに幸せな時間が、過去にはあったのだ。

ふと顔を上げた咲希は、手垢一つないほど磨き上げられたステンレスの調理台に、自分の顔が歪んで写っているのを見て微かに笑った。

まるで自分を嘲笑うかのように、悲しい笑顔で。

彼女は歪んだ自分から目を背け、厨房の中をゆっくりと歩いた。

オーブンに火をつけ、温度調節のダイヤルを回す。

冷蔵庫を開けて、材料を調理台に並べる。

子牛の骨を天板に並べて、オーブンで焼く。

フォンド・ボーを仕込もうとしているのだ。

これは時間のかかる作業であり、今夜はこの店で仮眠をとることになるだろう。

構わない。

どうせ夫もあの家には帰らないだろうから。

夫は醜い傷痕を嫌い、咲希の体には触れなくなった。

そのうち表に愛人を置くようになり、多くの夜を表で過ごすようになった。

最初のうちはそれでも罪悪感があったようだが、今や過去の愛情も尽きたのか、咲希との離婚を望んでいる。

咲希は服越しに腰に向かって傷跡をなぞってみた。

痛みは、もう、ない。

傷から手を離した咲希は仕込みを続ける。

野菜を洗い、丁寧に刻む。

ガラス瓶からローリエを2枚、それを刻んだ野菜の横に並べる。

それが済むと、咲希は厨房の隅にある椅子に再び腰掛けて、予約帳を開いた。

ラ・ベラ・ヴィータの客は各界の重鎮が多く、時には「困ったことがあれば相談しなさい」と名刺を置いてゆく人も少なくない。

咲希はそうした名刺をきちんと整理して、予約帳の間に挟んでおいた。

その中から“弁護士”の肩書が書かれた何枚かを選び出し、膝の上に並べる。

——もう、夫はいらない。

子牛の骨が焼ける香ばしい匂いが厨房に満ち始める。

オーブンは、扉が開かれるその時を待っている。

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